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おじいを導く『飛行機カード』|まいこの虹色介護DAYS

前回の記事では『おじいの介護の始まり』を綴ってきました。今回はパーキンソン病を患い要介護5になったおじいと共に過ごした『おじいの介護録』を綴っていこうと思います。

寝たきりで気管切開をしているおじいの香川から兵庫県への引越し手配はとても大変でした。それでもなんとか私達が住んでいたマンションにお引越し。本格的な介護生活がスタートしました。

介護ってどうするの?自作したコミュニケーションボード

私達の最初の課題は『介護の仕方・介護時間の確保』でした。父は亡くなっていた為、一家の大黒柱としてフルタイムで働く母は時間も制限されている。そこで介護分担は私と双子の姉でする事になりました。まずは介護を覚える所から。ヘルパーさんや看護師さんに教わりながら沢山の事を学び、工夫しました。

①会話の為、50音を書いた自作のコミュニケーションボードを作成

②経管栄養のやり方

③褥瘡の手当ての仕方

④おむつ交換

⑤おじいに在宅用ナースコールを持ってもらい不安感の軽減

おじいも慣れないボードに苦慮しましたが、徐々にスムーズに意思疎通が出来るように。経管栄養や褥瘡の手当て(香川の病院に入院していたのに、臀部の褥瘡は骨まで達していました)その他体の拭き方や体位変換。右も左も分からない中必死に覚えました。在宅用ナースコールは、夜中心配で起きてしまうおじいの為に用意したもの。認知機能が全く落ちていなかったおじいは、今の自分の状況をしっかりと把握していました。話せない・動けない・食べれない・身の回りの事全てを家族にしてもらっている。きっとそういう罪悪感や悲しさ・辛さ・無念さがずっとあったんだと思います。そんなおじいが少しでも快適に過ごせるように、寂しくないよう出来る限りの事をし、悲しい顔や辛い顔は一切見せないよう努めていました。

それでも今だから言えます。家族も本当に辛かった。しんどかった。

スーツケースを持って微笑むご夫婦

息を殺して静かに泣く日々

介護について様々な事を学びましたが、全てがすぐ簡単に出来る訳では勿論ありません。ボードでの会話も30分〜1時間かかる事も少なくなく、やっと伝えてくれた事は「テレビのチャンネルを変えてほしい」、夜中にナースコールで起こされ伝えてくれた事は世間話。大学で授業の相談をし、ギリギリ単位が取れるようカリキュラムを組んでもらい、午前中に授業が終わるように設定。

授業が終わってから2時間かけて帰宅し、そのまま介護・看病。夜も寝れない事が多かったので睡眠は途切れ途切れ。一睡も出来ないまま大学に通う日もありました。唯一確保出来た睡眠時間は、通学の電車の中とヘルパーさんが家に来てくれた時のみ。家族で食卓を囲む時も『今日のご飯美味しいね!』と言うとおじいに聞こえて辛い思いをさせてしまうかもしれない。いつも食事中は無言でした。

もう心も体も限界。何で自分はこんなしんどい思いをしながら大学に通っているんだろう。大学生らしくもっと遊びたい。でも誰にも相談できない。友達にも言えない。辛さが溢れてきて誰にも気付かれないよう、1人部屋の隅で息を殺して泣く毎日でした。泣き声が聞こえるとおじいはきっと自分を責めてしまう。

でもこの想いだけはブレなかった。『理不尽な病気に負けるもんか。おじいを幸せにするんだ』と。

2人のお孫さんとおじいちゃん

在宅介護の限界

約2年程、家族皆でおじいを守るように協力しながら在宅介護をしてきました。しかしもう全員疲労困憊。おじいも段々と家で看るには厳しい状況になってきました。そして下した家族の決断『おじいを療養型の病院に入れよう』本当に苦渋の決断でした。

でも在宅介護は家族の健康があって初めて成り立つものです。それを深く痛感した2年間でした。幸い自宅近くの病院が空いていたので、お見舞いにはほぼ毎日誰かが行くよう工夫も出来ました。

ただおばあは本当に寂しかったようで、毎日朝お弁当を作って病院に行き、夕方までおじいの側にいました。今思えばその頃からかもしれません。おばあの認知症が急激に進んできたのは。結婚して何十年も毎日一緒に居たんだから、病院に行ってしまっても毎日会いたいよね。おじいとおばあの夫婦の絆を感じた出来事でした。

私の航空会社の夢

おじいが入院してから私の就職活動は本格化していきました。私の小さい頃からの夢。それは『飛行機のお姉さんになる事』幼少期から毎年沖縄旅行に行っていた私達家族。おじいやおばあは勿論、いとこ家族も含め総勢10人超えで行った事もあります。家族皆で笑っている時間は本当に楽しかった。そしてそんな思い出作りのお手伝いが出来る航空会社にどうしても入りたかった。今はそうではないかもしれませんが、私が就活をしていた時期は航空会社はまだとても狭き門でした。それでも家族皆応援してくれていた。そして父が亡くなった時も誓いました。『必ず夢を叶えるよ』と。

お見舞い・勉強・就活に奮闘していたら、見事第一志望の会社の最終面接まで行く事が出来ました。最終面接の開催場所は羽田空港。

前日の夜に1人でおじいに会いに行きました。「おじい、明日最終面接だよ。頑張ってくるからね!!」すると想像していなかった答えが返ってきました。おじいは「行ってらっしゃい」とは言わずジェスチャーで私に言ったのです。

「行かないで。怖いよ。」と。

私はびっくりしました。『怖い?どういう事だろう?』でも明日は日帰りで最終面接。出発時間も早くそんなに時間がありませんでした。「大丈夫だよ。何も起こらないよ。心配しないで。」そう言っても何度も訴えかけられました。「行かないで」と。その後何とかなだめて帰宅しました。今思えばおじいはもう何か悟っていたのかもしれません。『もう舞ちゃんに会えないかもしれない』

そしてそれは何と、現実になってしまいました。

ビーチでマットを広げカメラに微笑むご夫婦

最終面接、おじいへのお土産

ドキドキしながらの最終面接。憧れの大手航空会社。社内ですれ違う、私が着たい制服。そんな緊張の中でも面接は落ち着いて行う事が出来、とても上手くいきました。こんな達成感に満ちた面接は初めての事。そして帰り際、全員にお土産として飛行機のポストカードをくれました。『これはおじいへのお土産だな〜♪』手応えのあった私はルンルンで飛行機に乗り帰路につきました。

伊丹空港に着き、迎えに来てくれていた母の車を見つけ乗り込みました。

すると母の険しい今にも泣きそうな表情に驚きました。そんな母からポツンと一言「おじいがもうダメだから。今から最期のお別れで病院に行くから。」頭が真っ白になりました。今このタイミング?昨日の怖いっていうのはこの事だったの?さっき面接でおじいの話してきたのに。私は訳も分からないままスーツ姿で病院に向かいました。

飛行機に乗って天国へ

病院は幸い空港からもさほど遠くなかった為すぐに駆けつける事が出来ました。おじいはというと、もう自発呼吸は出来ず、機械に助けられて呼吸していました。そう、その機械を外せばもう‥。まさに私の帰りを待って機械を外し、その時を迎えようという状況でした。もう冷たくなりかけているおじい。

せっかくカード見せて自慢しようと思っていたのに。何でもう話す事も出来ないのだろう。何で目を開けて「おつかれ!面接よく張頑ったね」って言ってくれないんだろう。何よりも『何で昨日ちゃんと話を聞いてあげる事が出来なかったんだろう』一気に後悔の念が襲ってきました。涙が止まらなかった。せめて帰りを待ってて欲しかった。笑顔でお帰りと言って欲しかった。おじいに最期に言いました。「おじい、ありがとう。おじいの話したから面接上手くいったよ。大好きだよ」

その日おじいは私達家族皆に見守られて天国へ旅立ちました。

ポストカードはおじいの道標として棺の中に。『おじい、この飛行機に乗って天国まで行くんだよ。』そう願いながら棺を閉めました。

後日、私はその第一志望の航空会社から内定を頂く事ができ、グランドスタッフになる事が出来ました。おじいは天国できっと、父と共に皆んなに言ってる事でしょう。『孫の舞ちゃんは凄い優秀なんや〜♩』そうやってずっと自慢しながら見守っててね。本当にありがとう。

祖父母や家族との旅行の思い出が詰まった飛行機

Maiko
千葉県で高齢者施設・個人様宅へ訪問し介護美容・シニア美容を提供しています。SNSでは介護美容に加えて、高校生からの家族の介護・看護の経験も発
Maiko

千葉県で高齢者施設・個人様宅へ訪問し介護美容・シニア美容を提供しています。SNSでは介護美容に加えて、高校生からの家族の介護・看護の経験も発中。体験会も随時募集しています!前職は航空会社に勤め、約10年グランドスタッフをしていました。 【HP:https://lit.link/maiko0219】

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