今回は私の『壮絶な介護の始まり』の物語を綴っていこうと思います。
私の介護の始まりは祖父(以下おじい)のパーキンソン病発覚からでした。
世の中にはパーキンソン病と診断されても、薬や日々のリハビリを通じて病気と上手く付き合っていける方もたくさん居ると思います。
しかし私の祖父はそうではありませんでした。発覚から1年程であっという間に要介護5の寝たきりに。そしてパーキンソン病と診断されたのは私が19歳の頃。
そこから突然、私の今にも至る『介護と隣り合わせの生活』が始まったのです。
パーキンソン病?何の病気?
私のおじいは昭和5年生まれ。戦時中であったにも関わらず大学を卒業し、定年まで銀行マンとして働いていました。空襲の中でも勉強していたおじいは本当に博識で趣味は読書、毎日のウォーキングも欠かさず、家族サービスも欠かさない、まさに絵に描いたような『素敵なお父さん・おじいちゃん』でした。オーケストラで言うと、家族の指揮者のような存在。
私の人生において最も尊敬する人です。
そんなおじいからある日突然電話がかかってきました。
「おじいちゃんな、パーキンソン病っていう難病になったんや・・。でも大丈夫。信頼出来る先生に診てもらってるから!」
「パーキンソン?・・?何の病気?」
生まれて初めて聞いたカタカナばかりの病気。すぐに母と調べると神経系の難病だと分かりました。しかし神経系の病気はどう進行していくのか、周りにそういった病気の人もおらずと正に未知の世界。今後の展開も想像も出来ず、危機感を感じる事すら出来ませんでした。難病だけど薬で少し進行を遅らせる事が出来る。だから大丈夫。そう言うおじいの言葉を信じるしかありません。当時私は兵庫県・おじいは香川県に住んでいたので頻繁に様子を見に行く事も出来ませんでした。
「きっと大丈夫だよ。だっておじいだもん!」
安易に考えていた私達は、この後の急激な展開に涙するしかありませんでした。

日に日に体が動かなくなって行く
それからは以前よりも頻度を多めに香川まで帰省していました。しかし行く度行く度、おじいの手足は震え立ち上がる事が難しくなり、ウォーキングなんてもっての他。わずか半年程で、歩行器無しでは歩く事が出来なくなっていました。
「本当に薬効いてるの?どういう事?病院の先生大丈夫?」
家族皆で疑問に感じてはいましたが、月に1回大きな病院に通っていたのと、おじいの「大丈夫、大丈夫!」と言う言葉を信じ切っていました。
今思えばこの時一緒に病院に付き添っていれば結果が変わったかもしれません。
次第に歩行器を使用しても家の中で転ぶようになり、自家用車に乗っても降りる事が出来ず、閉じ込められそうになったり。病気は凄まじい速さでおじいの体を蝕んでいきました。
そしてその日は訪れました。自宅で転倒しとうとう起き上がる事が出来ず、病院に救急搬送されたのです。入院にはなったものの、おじいは顔色も良く普段とあまり変わらない様子。終いには一言。
『おじいちゃんお腹空いたんや〜。おにぎりが食べたいなあ〜♪』
そう無邪気に言う姿を見て安堵さえ覚えました。病院下のコンビニにおにぎりを2つ買いに行き、それを美味しそうに頬張るおじい。とても幸せな時間でした。
しかしそんなひと時も束の間、この後主治医から絶望の2択を迫られる事となりました。
最後のおにぎり
ある日突然、前置きもなく主治医の先生が病室に来て病状の説明を始めました。
『濱本さん(おじい)嚥下能力が急激に落ちています。このまま死んでいくか、気管切開をして生きていくか。この2つしか選択がありません。気管切開をした場合、もう話す事も食べる事も一生出来ません。気管切開に同意する場合は右手を上げてください。』
唐突に言われました。誇張しているわけでもなく本当にこのままの言葉でした。
皆さん、ある日突然『生きるためにはもう話せず食えず』と言われたらどうでしょう?そしてそれを何の前触れもなく、大切な家族の前で言われたらどうでしょう。
すぐにおじいの方を見ました。泣いている姿を今まで見た事が無かった。そんなおじいでも静かに大粒の涙を流していました。
なんで今、なんで家族に相談もなく今突然来てそんな事を言うのか。
心の準備が出来ていない本人・家族にあまりに残酷な伝え方ではないか。
人の心が無いのか。
怒りや悲しみ・絶望感など様々な感情が一気に溢れてきました。
その後病院側と色々話し合った事は記載しませんが、お察しください。
‥しかしどんな状況であれ嚥下能力が落ちている事実に変わりはありません。
『気管切開をする』この選択を取るしかありませんでした。
美味しそうにおにぎりを食べる姿、それがおじいがご飯を食べる最後の姿となり、それがおじいと言葉を交わした最後の時となりました。

私達家族の後悔・そして始まり
もっと早く気付いていれば、もっと早く近くにいてあげれば、もっと早くセカンドオピニオンを受けていれば。大好きなおじいから『食べる喜び』『会話の尊さ』を奪う結果にはならなかったのかもしれない。
離れている私達家族はどうすれば良かったのか。責め続けました。今でも私は自分を責めてしまいます。でも過ぎた時間はもう戻ってこない。
さらに幸か不幸か、おじいの認知機能は全く落ちていませんでした。
『動きたいのに動けない、食べたいのに食べれない、話したいのに声がでない』
これらの感情がはっきりと認識出来るのです。
私達家族にとってはここが一番辛かった。いっその事何も分からなくなっていたら本人も楽だったのかもしれない‥。そう思う程でした。
しかし一番辛いのはおじいです。例え話す事が出来ず、食べる事が出来なくなっても、今まで家族の為に頑張ってきたおじいは誰よりも幸せになる権利がある。
こんな病気に負けず誰よりも幸せに私達がしないといけない。
『おじいとおばあを兵庫県に連れて帰って在宅介護をしよう!』
ここから私の、今に至る長い介護人生が始まりました。おじいの介護生活については次回綴っていこうと思います。

私が今、伝えたい想い
難病というカテゴリーに限らず昨今様々な病気があります。
初めは大人しくしていても、突然牙を剥いて私達に襲いかかってくる事もあります。勿論、今の医療では全てを防ぐ事は出来ません。
それでも病気になったからと言って『全てを諦めないでほしい』
病気や日々の介護と闘っている皆様。悲しみばかりに目を向けてしまうと思います。私も実際そうでした。しかし工夫や考え方次第で、絶望と悲しみの中でも小さな幸せを見つける事が出来ます。
そしてその小さな幸せは、今でも私の中の大切な宝物であり原動力です。
その光に気付く事が出来ますよう、執筆しながら願っています。
※今回の記事は私の実体験ではありますが、決して病院や主治医の先生を批判するものではありません。