ばあちゃんプロフィール
石田冨二子(イシダフジコ)98歳で永眠。1926年(大正15年)8月12日生まれ。群馬県前橋市生まれ。結婚後は1男1女の子どもに恵まれる。冨二子さんエピソードを孫の幸代さんにインタビューさせていただきました。
天と地を体験
丸屋:冨二子さんについて教えてください。
幸代さん:17歳で満州に渡り、満州航空のエアガール(今でいうキャビンアテンダント)をしていました。当時の飛行機の乗客は、国の要人レベルの方々。日本支配下の満州で親戚とともに裕福に暮らしていましたが、日本が戦争に負け状況は一転。食糧不足やソ連軍の侵略で多くの方が命を落とす中、2歳になる従兄の子を背負い、ボロボロになりながら日本へ引き揚げたそうです。

(満州航空のエアガール時代)
丸屋:冨二子さんの日本での暮らしは?
幸代さん: 帰国後に結婚し、埼玉県に住んでいましたが、体調不良が続きました。今思えばPTSD(心的外傷後ストレス障害)のようなものだったのかもしれませんが、当時は原因がわからず「転地療法」を勧められました。住む場所を変えることで良くなるかもしれないということで、湘南の高台に家を購入し、療養を始めたところ、わずか2カ月程で元気になったと母から聞いています。
好奇心のままに生きる
丸屋:冨二子さんが幸せに感じていたことはなんでしょう?
幸代さん: とにかく新しいものは楽しみたい、やってみたいという性格で、琴、三味線、社交ダンス、茶道、フランス刺繍、木目込み人形作りなどをたしなむ、アクティブなおばあちゃんでした。驚いたのは、80代のころ、孫である私の弟が当時30代の若い先生に三味線を習い始めると「私も習いたい」と、鎌倉から東京の根津までお稽古に通い始めたことです。発表会で孫と共演できたことは幸せだったでしょうね。
また、90代になってからも、一人で電車を乗り継いで山梨にある私の実家を訪れたり、「ヘルマンハープ」という楽器の演奏をマスターしたり、いくつになっても好奇心の塊でした。ファッションや、美容へのアンテナも高く、いつもお洒落な洋服を選び、若い人が使う化粧品もチェック。「食」にもこだわりがあり、遊びに行くといつも美味しい料理をふるまってくれましたし、自分が美味しいと思ったものは電話で取り寄せて、家族にプレゼントするサービス精神もありました。

(フランス刺繍のスワン。幸代さんの家のリビングで見守ってくれています。)
自分で自分の人生を切り開く
丸屋:冨二子さんの最期はどんな感じでしたか?
幸代さん: 93歳ごろまでは元気いっぱいでしたが、コロナが流行し、外に出られなくなってからだいぶ弱ってしまいました。祖母にとってやりたいことができない暮らしは、自分らしく生きられない環境だったのかもしれません。それくらい、自分で自分の人生を切り開いていた祖母でした。永眠する1年ほど前から高齢者施設に入居していましたが、介護士さんに「やりたいことはやってきました。もう望むものは何もないです」と話していたそうです。
最期は眠るように誰も知らないまま旅立ちました。いつも通り夕食を終えて就寝、翌朝施設の方が気づいた時には息をひきとっていたそうです。誰にも迷惑をかけないと決めて逝ったのだと思います。
丸屋:冨二子さんへのメッセージはありますか?
幸代さん:「ありがとう」の一言です。私が生まれた時、祖母はまだ48歳と若く元気だったので、色々なところへ連れて行ってくれたり、流行のおもちゃを買ってくれたり、いつも楽しみでした。生死を分けるような経験をしたからこそ、やりたいことはとことんやり、「悔いなく生き切る」姿を見せてくれたのだと思います。祖母が生き延びてくれたおかげで、今、私の命があることに心から感謝しています。

(亡くなる半年ほど前。幸代さんが着ていたワンピースを「素敵ね。よく似合っているよ」と褒めてくれたそうです)
あとがき
私の学びの場で講師としていらっしゃった幸代さん。SNSで繋がった際、3月におばあさまが永眠されたことを知りました。桜の花をおばあさまの住む高齢者施設に届けていた幸代さん。きっと、これから先何年も桜の花を見ては、おばあさまのことを思い出され、桜の花と共に生き続けられることと思います。そして、初孫である幸代さんの誕生日にインタビューをさせて頂きました。おばあさまが結んでくれたご縁だと感じております。ありがとうございました。
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