ばあちゃんプロフィール
円城寺フヨ(エンジョウジフヨ)
93歳で永眠。1913年(大正2年)10月2日生まれ。
佐賀県多久市生まれ。結婚後は2男4女の子どもに恵まれる(1男は生後すぐに永眠)。佐賀県小城市にある「天山」という山奥に住み、米や野菜作りをして過ごす。民謡・演歌が大好きで日曜日になると決まったテレビ番組を見ながら歌うことが日課であった。好きな歌手:中村美津子。特技:鯛の身を骨の隅々まで食べあげること。
そんなフヨさんエピソードを長男、正美さんにインタビューさせていただきました。
米1粒残していたら怒っていた。自分たちが大切に育てた1粒の価値。
丸屋:フヨさんはどんなお母さんでしたか?
息子さん:常にカリカリ(イライラ)していて、気の休まるときがない感じでした。それは、どんな人かもわからない親同士の勝手に決めた結婚で苦労をしていたからです。結婚が決まったのは戦後すぐの話。戦時中は食べるもの、着るものに対してすごく苦労をしていた時代。農家だったら、自分のところで農作物をつくって食べられると思い、結婚が決められたが実際は借金があり、それを返済するために夫婦で一緒に働き詰めの生活でした。
丸屋:百姓のみで借金返済をしてあったのですか?
息子さん:家ではお米・野菜を作り、ニワトリが卵を産み、自給自足の生活でした。そこからわずかながらの米を売り、木炭をつくり、それを売って生活していました。他の生活用品や肉・魚などの生モノは月に1・2回、片道2時間の距離を歩いて買いに行くか、販売に来てくれることも稀にありました。
丸屋:フヨさんはどんな子育てをされてありましたか?
息子さん:とにかく借金を返すために、子どもたちに早く一人前になってほしいという想いがあったみたいです。だから私は行きたかった高校も行けずに就職しました。本当は後継ぎをするのが長男の役目だったとは思いますが、世の中では安い賃金で働いてくれる人を「金の卵」と言われて喜ばれていました。妹たちがまだ4人いるので早く家を離れて、ずっと仕送りをしていました。子育てが済んでからは、少し心に余裕が出来た感じもありました。
一生に一度でいいから、雨漏りしない家に住みたい。
丸屋:フヨさんにとっての「幸せ」だったことって何だったと思いますか?
息子さん:幸せそうなことはなかった。親同士の決めた結婚で貧乏な家に嫁いで、苦労しかしていない。自宅が雨漏りをするくらいの家だったので「雨漏りしない家に住みたい」を何度も言っていたことを思い出します。だから、思い切って自分の土地で植えていた材木を使って、新築の自宅を建てて住めたこと。これが母にとって、念願の幸せを叶えた時だったのかもしれないですね。
丸屋:今、フヨさんに伝えたいことはありますか?
息子さん:雨が家に振り込まない家に少しでも住めてよかったね。子どもたちはみんなそれなりに成長していますよ。貧乏だったけど、子どもたちでお金を出し合ってくれて北海道旅行とかも出来たね。自分は一緒に住んでいたけど、あんなふうにしてあげればよかったとかいうことはないよ。
あとがき
私の記念すべき1回目の執筆作業。私の祖母のことを父にインタビューさせて頂きました。最初はインタビューに対して無言だった父…。きっと、借金があるほどの貧乏な家庭だったことを言うことに対して迷っていたのだと思います。私自身、初めて聞く話ばかりで、インタビューをしながら涙が止まりませんでした。苦労をしてきた93年間の人生。その最期の時を、支援させてもらったのが私だったのです。身体を拭き、着物を着付け、化粧をして、一緒に隣で寝させてもらって温もりから冷たくなるまでを感じさせてもらいました。祖母の「ありがとう」の言葉とともに安心したような穏やかな表情。今思うと、苦労したけど、夢を叶えることができた幸せを嚙み締めていた表情だったのかもしれませんね。
祖母の孫に生まれたことを、誇りに思います。感謝をこめて。
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