ばあちゃんプロフィール
澤登節子(サワトセツコ)81歳で永眠。1943年(昭和18年)2月28日生まれ。神奈川県横浜市生まれ。結婚後は1男1女の子どもに恵まれる。銀行の事務員として勤務していましたが、お見合い結婚後は専業主婦になり、サラリーマンのご主人を支えていらっしゃいました。そんな節子さんエピソードを長男和夫さんにインタビューさせていただきました。
笑顔で明るく、太陽みたいなポカポカしている人。
丸屋:節子さんはどんなお母さんでしたか?
息子さん:元気で明るい人、頑張り屋さんでもありました。お遊戯会のときは熱が出ていたにも関わらず、観に来てくれました。
丸屋:節子さんはどんな子育てをされてありましたか?
息子さん:子どもの願いはよく受け止めてくれて、叶えようとしてくれていました。こうしなさい、ああしなさいというのもなく、自由にのびのびさせてくれました。「好きなように生きなさい」と言われてはいませんが、そんな感じにさせてくれていました。

(節子さんの明るさが伝わってきますね)
ただ居るだけで周りにチカラを与えている。「存在=価値」
丸屋:明るくお子様想いの節子さん、苦労されたことはあられましたか?
息子さん:自分のことで苦労をかけましたね。27歳の時に結婚・大手企業に出向したのですが、過労と心労でうつになりました(その後躁とうつを何度も繰り返す)。会社に行けず休職し、離婚もしました。実家に戻りましたがうつがひどくて家を出たくない、人に会いたくない、死にたいという気持ちが強く出ていました。母は元気になってほしいという思いで、うつに関する本を読む、どうやって声かけをする?寄り添う?ご飯はどんなものがいい?高いサプリメントを買ってみるなどいろいろ取り組んでくれていました。しかし、母を振り切って近所のマンションに行き、最上階から飛び降りました。その後は入院(整形外科→精神科)になりましたが、母は「なんで飛び降りたの?」とか何も聞かず、三日三晩隣に居てくれました。その時の自分自身は「なんで失敗したのだろうか…」とモヤモヤの方が大きかったですが、母のただそこに居てくれる「存在」が今考えると大きかったですね。母は後から「振り返ると精神的にはしんどかったね」と話してくれました。

(節子さんの笑顔が輝いていますね)
丸屋:節子さんにとっての「幸せ」だったことって何だったと思いますか?
息子さん:自分はうつの他に潰瘍性大腸炎(難病)になり大腸を全摘もしたのですが、元気になり、カウンセラー活動や講演会をするようになると、母はよく観に来てくれていました。参加者と話すのも楽しかったみたいですが、自分が楽しそうにしている姿を見ることも喜びだったようです。5人の孫に会うこと、父とラジオ体操やウォーキングに行く日課も楽しみになっていたと思います。
丸屋:今、節子さんに伝えたいことはありますか?
息子さん:お母さん、ぼくを信じて見守って、一緒に近くにいてくれて、自由に好きなことをさせてくれて、ありがとう。旅立ちはしたけど今も母さんの笑い声が聞こえる気がするよ、近くで見守ってくれてるのかな。病院で最後に書いてくれた「みんな、ありがと。うれしかった人生でした。」とてもうれしかったよ。ぼくの方こそ、このうれしい人生をありがとう。これからもよろしくね。

(節子さんが最後に残した言葉)
あとがき
今年1月9日に永眠。息子さんと私は2020年にfacebookで繋がった仲でした。福岡に来るたびに声をかけてくれて、でも基本は画面越しで仲良くさせていただいている感じです。投稿を見ながら、節子さんの存在もあがっており、お孫さんと毎回楽しそうな写真があがっていたことを最近のことのように思います。そんな節子さんが最後にノートに残した言葉が「みんなありがと うれしかった人生でした」
口癖みたいに普段から「あー嬉しい」と言われてあったそうなので、日頃のうれしいが積み重なっての「うれしかった人生」だったのかなと。感謝をこめて。
ママトン体験記(息子さんがうつになった後に書かれた節子さんの記事)
感想・コメント
1
母の愛の大きさ
私もままとんの存在は知ってましたが、改めて記事にしていただき、本当に母の愛の偉大さに感動すら覚えました。
ありがとうございます。
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